過去の事

2009年2月17日 (火)

叔父さんのトラウマ

小学生の頃、おじさんに性的虐待をうけたことがある。

レイプされたんじゃなくて、色々触られた。

このおじさんは、お父さんの弟で、後で聞いたが精神科に通院していたらしい。

はじめは、仲良く遊んでくれてた。

でも、次第におかしくなってきた。

私の胸がふくらみはじめた頃、後ろから抱きつかれて、胸を触られた。

その場には、おじいちゃんもおばあちゃんもいた。

びっくりした。

そして…「まだ、大きくないなぁ」と耳元でささやかれた。

だれも咎めなかった。

そして、私はその叔父さんを無視するようになった。

最近思い出した事もある。

親戚みんなで遠出した時、子供達ははしゃいで海にはいって遊んだ。

帰りの車で、私はタオルにくるまって、パンツを脱いでいた。

ぎゅうぎゅう詰めの後部席で叔父さんの膝の上に座らないといけなかった。

へんな感じ。性の意味は分らなくても、妙な感じは察知した。

今考えたら、叔父さんは小学生の私を膝に乗せて、勃起してた。

すりつけてくる感じがイヤで、早く家につかないかと思っていた。

高校生の時は、おしりを触られた。

私はお父さんに訴えたが、聞く耳をもたなかった。

今でも、私は話しどころか、目もあわせない。

許せない。

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2009年2月 5日 (木)

2回目の夜逃げ

弟の不登校が解決してから、2回目の夜逃げをした。

私は、大学を卒業してパートで働いていた。

はじめは、反対していた。

父の事を捨てられなかったからだ。

アルコール中毒の父がひとりで老いていく姿を想像したら、家を出ることが出来なかった。

しかし、母は我慢のピークに達していたので、父に内緒でアパートをかりていた。

いつでも、逃げられるように。

毎晩、父の暴力・罵声は続いた。

それでも、私は捨てる勇気がなかった。

こんな父でも、親だから。

また、前のように自殺未遂するかもしれない事もこわかった。

母にも、父を捨てられないと話した。

そしたら、母がヒステリックになり「アンタは冷たい人だね!お母さんがこんなに苦しんでいるのに!お父さんの味方なんでしょ!」

と、怒鳴り始めた。

そうではない。

どっちの味方でもない。

私にとって父を捨てるという事は「死んでもかまわない」という事だった。

母は「私は家を出る!弟も出る。お母さんかお父さん、どっちか選びなさい!お父さんを選んだら、親子の縁を切る!」

と、言われた。

私は母を選んだ。

そのかわり、父がどうなってもいい。父を捨てて新しい生活を始めよう。

本当は、どっちか選びたくなかった。ひとり暮らししようかとも考えた。

でも、パートの給料を考えたら、家賃を出せなかった。

母と弟、私の3人で夜逃げした。

妹は、留学中だった。

夜逃げした何も無いアパートで、初めての夜、3人でお弁当を買って食べた。

不安な気持ちでいっぱいだった。

私は母を助けていく決心をした。

もし、父が死んでもかまわないという気持ちで夜逃げをした。

私にとって、大きな決心だった。

両親のどちらかを選ばされた。

今でも、あの時の感情は覚えている。

それから、半年は安定した生活を送っていた。

しかし、父が鬱病になり…母がまた家に戻ることになる。

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2009年2月 4日 (水)

新しい家をたてて…

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父が心を入れ替え、お酒を辞めて一年。

一年間は、本当に幸せでした。

普通の家族みたいでした。

そして、父は心気一転したいと、新しい家を建てると言い出しました。

家を建て、引越してからすぐに、父はまたお酒を飲み始めました。

私が大学生の頃でした。

物を投げることは、なくなりましたが、母への暴力はエスカレートしていきました。

父が帰ってくると、私は飛び起きて母のところに行き、母を守る。

私も何度か殴られました。

また、同じ生活に戻りました。

父の暴力に怯えて暮らす毎日。

その頃は、暴言が多かったです。

一度、普通の家庭を味わったので、また暴力に怯える日々は辛かったです。

そして、弟が不登校になりました。

父は怒って、弟の制服を燃やしました。

父にとって、恥ずかしいことだったのです。

不登校の原因は、不良のグループに目をつけられたからでした。

転校する事で不登校は解決しました。

弟は、頭が良かったので、父にとって自慢の息子です。

今でもそうです。

有名W大学に通っています。

弟の不登校で母はストレスの限界でした。

朝は、弟の心配をし、夜は暴力に怯えていました。

あの頃の母は余裕がまったくありませんでした。

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2009年1月15日 (木)

どうにもならない事がある

高校生の頃、世の中にはどうにもならない事があると知りました。

父の醜い姿を見た時です。

父の暴力を父の母(おばあちゃん)に、止めて欲しいとお願いしました。

ある晩、おばあちゃんが家に泊まりにきました。

おばあちゃんは、自分の息子が酒を飲んで暴れることを信じられないでいました。

その光景を見せるためにも、泊まりに来てもらいました。

深夜、玄関を蹴りながら父が帰ってきました。

そして、靴のまま家に入り、テーブルを投げ、母につかみかかった時、おばあちゃんが出てきて、泣きながら止めました。

父はおばあちゃんが泊まりにきてることを知りませんでした。

そこで…おばあちゃんに、言い訳をしました。

「こいつ(母)は、毎日ご飯も作らないし、家事もしない。自分は、ひもじい思いをしてるから、暴れるんだ!」

と言い…冷蔵庫からパックに入った生肉を手で食べ始めました。

壮絶な光景でした。

生肉を素手で食べてる。。。

自分の親が。。。

この情けない姿に衝撃を受けたのを覚えてます。

私は壁に頭を何度も打ち付けながら…泣きました。

「世の中には、解決できない事がある。自分ではどうしようもない事がある。」

そう思いました。

この衝撃的な姿を見てから、私は諦めました。

父の暴力も、罵声も、挑発も。

聞き流すようになりました。

この時に、父に対して「親」という意識がなくなったと思います。

今でも、ないです。

哀れな人だなぁ~と感じるぐらいです。

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2009年1月14日 (水)

新しい生活

夜逃げして、新しい生活が始まった。

父から解放された。

父は私達の居場所も知らないし、調べることも出来ない。

私は、バイト、予備校、自動車教習所と毎日忙しかった。

新しい生活は、楽だった。

夜中に起されることもないし、暴力や罵声に怯えることもない。

でも…、2週間が過ぎた頃…。

自動車教習所に父がやってきた。

久しぶりに見る父は…老け込んでいて、ガリガリに痩せていた。

私は、つかまる。ヤバイ!

と思って逃げようとしたら…父が土下座をして「ごめんなさい…」と謝ってきた。

人目もあるので、外に出て話しを聞いた。

「夜逃げされてから、眠れない。本当に悪かった。戻ってきてとはいわないけど、謝りたかった。電話番号だけでも教えて欲しい。。。お母さんにも謝りたい。。。」

と父は言った。

私は信じられなかった。

あの父が、白髪になって、痩せこけて、謝っている…。

信じられない光景だった。

「酒を止める。」

とも言っていた。

私は、「電話番号は教えられない。そのかわり、お母さんに電話させるから帰って欲しい。」と伝えた。

父は涙を流しながら、何度も謝っていた。

でも、信用できなかった。

家の近くまで送るといわれたが、アパートがばれるのが怖くて断った。

その夜、母は父に電話をかけた。

何を話したかは、知らないけど、泣いていた。

それから、毎晩、父に電話をかけていた。

母は、父の事が気になってしかたがない様子だった。

同時に、自分達の存在の大きさを知り満足した様子でもあった。

父と連絡するようになって、私達は父のいる家に顔を出すようになった。

そのころ、父は毎日アルバムを見たり、日記を書いていた。

○月×日、家族が会いに来た…

というような内容だった。

お酒も飲まずに、本当に反省していた。

たまに会いに行く日々が続いた、ある日。

父が自殺未遂をした。

精神科にかかっていたみたいで、睡眠薬を多量服用した。

それを機に、私達は父の家に戻った。

それから一年は、お酒を飲まなかった。

暴れることもなかった。

家族で外食したり、普通な家庭になった。

家も父が暴れた形跡がイヤだといい、新しく立て直すことになった。

新築の2件目の家。3階建ての庭が広い家に引っ越した。

母の思い通りに作った家。

新しい家に引っ越してから、すぐに…

再び、父はお酒を飲みはじめるようになった。

仕事が上手くいってなかったらしい。

そして、また暴れるようになった。

…つづく。

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2009年1月 7日 (水)

大学受験に失敗して…夜逃げ

大学受験に失敗して、父に馬乗りになって殴られた。

「バカが!お前はその程度だ!威張ってるんじゃない!」

と、言われながら。

顔を叩かれ続けた。

私が、父の暴力に対して、いつも正論で反論していたから、ここぞとばかりに、罵倒された。

なんとか、家の外に逃げた。

母が追いかけてきた。

「お母さん、私、もうお父さんと暮らすの…無理。。。」

と言った。

次の日、夜逃げした。

母は、いつでも逃げられるように、アパートを借りていた。

母と妹と小学生の弟、私の4人で、夜中に荷物を運んで父から逃げた。

近所にばれないように、窓から荷物を出し、車に詰め込み、アパートに運んだ。

高校を卒業して、ようやく逃げることができた。

これで、安心した生活が送れる。。。

私も予備校に通いながら、アルバイトをし、学費を貯めはじめた。

妹は高校生。

弟は、小学生。

母も仕事を続けながら、夜に寝れる生活が始まった。

でも、半年も続かなかった。

父が自殺未遂をしたから。。。

つづく…

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2009年1月 4日 (日)

お正月・お盆

毎年、父が爆発するのは、正月とお盆。

正月が近づいてくると、父の機嫌が悪くなる。

毎日、お酒を飲んで暴れるし、母に暴力を振るうのもこの時期だった。

母が「長男の嫁として、なっていない。」というのが原因だった。

母は、はじめの頃は、父の実家に尽くしていたが、父が暴れるようになってから行かなくなった。

そして、父の実家も母をこき使うので、母も苦しい思いをしたらしい。

母は、「こんな思いまでして行く事ない」という考えになってきた。

「長男の嫁」としての仕事が、子供達にまわってきた。

私と妹が、こき使われるようになった。

父の実家に尽くした。

何を言われても、意地悪な事をされても、我慢した。

やらないと、父の暴力の餌食になるから。

毎年、おせち料理を朝の4時から作っていた。

それを、父の実家に届けて、お客さんが来るので、接待。

家に帰るのは、夜だった。

おばさん達から意地悪な事を言われたりした。

とってもツライ思いをしていた。

それに高校生からは、親戚廻りもさせられた。

お歳暮を持って、約5件まわる。

普通は父が行くものなのだが…、父は私にすべて投げた。

12月31日(おせちの準備)

1月1日(朝の4時からおせち作りの手伝い・父の実家でお客さんの接待)

1月2日(親戚廻り)

1月3日(父の実家で接待・足りなくなったおせち作り)

母が父の実家に行かなくなってから、私と妹でこなしていた。

正月は嫌いだ。お盆も嫌いだ。

母のスタンスも許せなかった。

父が暴れるから、行かない。父の実家で昔こき使われたから、行かない。

私達に任せるなら、文句を言わないで欲しかった。

ヒステリックになり、父と父の実家の文句を聞かされていた。

文句を言うなら、一緒に行って頑張って欲しかった。

悪い事だけ聞かされて、父の実家に尽くすのは、とても大きいストレスだった。

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2008年12月23日 (火)

芸能スクール④

高校生になってからも、芸能スクールを続けていた。

でも、デビューするメンバーから外されていたので、ただ通っているだけだった。

辞めようか迷った時、あるドラマのオーディションを見つけた。

「受けてダメなら、芸能関係は辞めよう。」と決め受けた。

力試しだった。

そこで、準グランプリになった。

ドラマにでる事になった。

スクールに内緒で受けたので、ドラマに出るために、スクールを辞めることにした。

電話一本で辞めることができた。

引き止められると思っていたけど、簡単だった。

高校2年生の夏。

ドラマの撮影に入った。

ちょい役だったが、初めての事にワクワクした。

ドラマが終わり、東京の芸能事務所を紹介された。

しかし、私は断った。

1人で東京に出る怖さ。学校を転校しないといけない事。芸能界でやっていけるかの不安。

そして、日常にもどり、普通の高校生活を送った。

その頃、もう一つの夢があった。

世界史の先生になる事。

世界史が大好きだったので、教鞭をとりたいと真剣に考えるようになった。

高校3年生は、大学受験生として、勉強を頑張った。

芸能関係の事は、すっかり忘れて勉強に没頭した。

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2008年12月17日 (水)

芸能スクール③

中学校3年生の時、いよいよデビューが決まった。

グループでのデビューだった。

デビューまでの期間、強化訓練として、バレエ教室に通わされたり色々な事をした。

しかし、高校受験が控えていた。

私は、バスで勉強しながらレッスンに通った。

ある日、校長先生に呼び出され、高校に進学するのを諦めるように言われた。

これから、東京で売り出していくのに、地元の高校に通うなんて出来ない。

しかし、母と「高校までは出る。あとは自由にしていい。」と約束していた。

私は、鈍感だったのかもしれない。

「高校受験のために一週間休ませてください。」

と、スクールを休んだ。

受かって、戻ってきたら、メンバーからはずされていた。

でも、後悔はしていない。

そのグループはデビューした。

今でも、活躍している。

TVで観ると少し胸が痛くなる。

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2008年12月12日 (金)

芸能スクール編②

スクールに通いだしてから、新鮮な事がいっぱいで楽しかった。

生徒達は、向上心が半端なく強く、競争心も高かった。

優劣もつけられる世界でもあった。

歌・ダンスのレッスンを中心に授業が土・日ある。

クラスも、A・B・Cあって、Cから始まり、準専科・専科と上がっていく。

私はCから始まり、一年で準専科までいった。

歌とダンスが得意なのではなく、中学生という年齢もあったと思う。

そして、3ヶ月に一回は定期公演がある。

チケットのノルマもあった。

公演では、前半は全員出れる。後半は、選ばれた人しか出れないエンターテイメント性の高いショーという形で構成されている。

この、後半のショーに出れるか出れないかで、実力がはっきりする。

私は、3年間スクールに通った。

最初に驚いたのは、公演のグループ分け。

学校と違って、友達や席の近い人とグループを組むのではなく、先生が決めて発表される。

そこで、優劣をつけられる。

最初は、期待されてたと思う。

一年たたないうちに、ショーのグループに入れられ、アイドルっちくな事をしていた。

グループの中でも、誰がセンターか?

という競争があった。

センター争いは、壮絶だった。容姿のいい子をセンターにする。センターからはずれると、泣く子もいたし、いじめもあった。

私は特に秀でるものがなく、他の生徒よりもぼーっとしてたので、センター争いに気付いたのは、入って一年ぐらいしてからだった。

私がグループのセンターになった事はないので、気付かなかったと思う。

小学生の生徒に、「真剣にやったら?」と言われた事もある。

校長もこの子は、才能があるのか?ないのか?迷っていたと思う。

一年目に、突然。

雑誌のモデルの仕事が来た。

スクールに呼び出され、日程をあけるように言われた。

学校を休んで、3泊4日で石垣島撮影に行った。

びっくりしたけど、その時もぼーっとしてた。

覚えてるのは、撮影のレフ板がまぶしかったこと。

ホテルの食事が美味しかったこと。

そして帰ってからは、いじめが待っていた。

でも、そんなに傷つかなかった。

こんな世界なんだな~と思っていたから。

反対にもっと、酷い事をされると思っていた。

悪口だけですんだ。

多分、芸能の世界に没頭してなかったからだと思う。

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